「Karawane」(カラワーネ)の解釈にあたって、最初に思い浮かんだのは、Cabaret Voltaireの舞台でした。そこから、あまり真面目すぎないイントロダクションのコンセプト――つまり、演出された舞台上の一幕――が着想の源となりました。
複数の声が同時に聞こえるのは、当時行われた同時朗読を彷彿とさせます。
私の考えでは、ダダイズムではシュルレアリスムの影響を受けながら、できるだけ無意識の奥底から直接的に表現を引き出そうとしているのだと思います(Raoul Hausmannの場合も同様です)。即興的な要素が強く、偶然性に近い形で展開されるのが特徴です。
人間の脳は、たとえ(見かけ上)偶然に見える現象においても、意味を見出そうとし、連想を働かせます。たとえば、雲の形にイメージを見出したり、雑音の中に音を感じたり、ダダ詩に意味を見いだすようなものです。
また、「雑音」はあらゆる周波数を含むため、偶然性そのものと捉えることができ、動画のオーバーロード感とも相まって、編集の切り替え要素として利用しました。
なお、原詩の音声記録が存在しないため、「Karawane」の解釈は、文字と言葉の意味論のみに基づくことになります。Ball自身が書き記したかどうかも不明なこのテキストですが、詩の発音や、文字そのもの(いわゆるコンケート・ポエジー)の視覚表現が、作者の意図を推し量る上で重要な手がかりとなります。私が見つけた解釈は、シラブル(音節)の終わり方に至るまで大きく異なっており、その多様性が興味深いものです。
そこで、私はロボット音声を使用するというアイデアに至りました。これにより、音響的なレベルで人間の感情が介在せず、「冷たい現状」が提示されることになります。さらに、私自身のシラブルに対する理解を字幕として表現しました。
こうして、テキストの解釈とそれに基づく視覚的な内容を示す枠組みが完成しました。
テキストは、ダダイズムの精神に則った自由な連想のための素材として用い、各単語やその一部から私の頭に浮かんだイメージを、インターネットからダウンロードした画像で表現しています。
また、動画冒頭で「Hugo Ball」という著者名を四度繰り返すことで、著作権侵害への言及をあえてユーモラスに皮肉っています。